前に宮台さんか誰かが、
チャットの会話のことだったっけな、
「自動応答のツールと話しても見分けがつかない」
みたいに言ってて、でもそれって相当前のことよ。
軽く15年は前だと思う。
概念自体は60年代からあるっぽい。
けど今も、SNS上の会話とか見てると、
「これって自動応答とかにしても気づかないよね?」
みたいな紋切り型のやりとりが本当に多い。
結局、人って「本当に内側から出てきた感情」だとか、
「オリジナルな表現」ていう類のもんはなくて、
脊髄反射やら「どこかで聞いたことのあるやりとりのパターン」をなぞっているだけなのかもね、
会話なんて。
ネットでは人目があるからそう言わざるを得ないのかもしれないし。
私はあまり意識したことなかったけど、
「入れ替え不可能な言葉や関係性」というものが、
意外と得難いものであり、
誰が言ったかわからなくても言葉を見るだけで誰かわかる、
みたいなのはものすごく難易度の高いことなのかもしれない。
案外初めて気づいたのかも。
私の場合は、ブログが晒されたり叩かれたりしたことも何度かあるので、
意図して人畜無害な表現を選ぶようにしてる、ネットでは。
けど、意図しているということは、
結局は「それじゃ物足らない」と思ってるわけで、
そういう感情を、FBなんか見てるとさらに増幅させられる。
きれいな景色の写真、
子供や動物のかわいい言動に笑った話、
仕事で悩んだ話、
仕事で成功つかんだ報告、
親孝行した話、
それについている紋切り型の反応。
もうさ、これ以上ないってくらいの既視感の嵐。
しかも、知ってる人が言うならまだ感情の入れようがあるけど、
多くは一面識もない相手だし。
でさ、そういう既視感に満ち満ちた会話こそ大好きな人が、
職場などには少なからずいる。
安心するってこと?
分かり切ったことを延々と言われてもクッソ面白くもないんですけど。
もちろん、無難な会話も大事だし、
潤滑油として必要でもあるし、全てなくなれとまでは言わない。
わかりきったやりとりをして安心することだってあるし。
でもあそこまで、全て自動応答で済むんじゃないか、
みたいな投稿とコメントを、毎日毎日繰り返しても満足する感性って、
ある意味感心するわ。
こうした指摘があまり出てこないのも、
不思議で仕方がない。
「FB等のアーリーアダプター層は、『意識高い投稿』などに辟易し、
早々に見切りをつけている」
というのを何度も思い出して自分を納得させる以外にない。
私は、mixiの頃からこれほどまでに強烈な違和感を持っているのに、
やれインスタ映えだの裏アカだの、
なんかほんとすごい。
他に居場所があればいいんだけど、
どうせ「バカに見つかる」などしてしまうんだろうな。
なんせやっぱり、「無難なものが好まれる」ということが、
けっこうやっかいに思えるんだよね。
炎上とかが怖すぎるのかな。
まぁ面白くはないよね。。