あのね、こういう問いって案外無駄なのよ。
「こんな話は聞いたことがない!すごい!」って素朴に思えるピュアな人には効果あるのかもしれないけど、
90年代にもおんなじような状況や葛藤があって、
けど、誰も真剣に聞かなかったし、そうおいそれと解決法も見いだせなくって、
そのせいで享楽的で「でかい後ろ盾に頼る」短絡思想に陥ったんだから。
その過程を覚えている者にとっては「またですか」で終了ですよ。
オウムのあの事件について、真剣に考えなかった人たちにとっては、
こういう問題は考える価値があるのかもしれない。
しかも、犯人に恨みを向けやすいし、
なんか、レベルが低くなって再登場した問題に見えるんだよね。
オウムのときってもう少し複雑で、レベル高かったのよ。
単純な弱者差別とかではなくて、
「平和ボケに陥っている者の全てはけがらわしい」みたいな、
もうちょっと高尚な考えしてたんだよ。
そのうえ、「オウムの幹部の気持ちもわかる」って言った人が責められることもあんまりなかった。
自分自身があのような感情と「紙一重」であることは、
サブカル界隈の人は普通に自覚してたんですよ。
そういった自覚がはなっからなく、
「自分は、そういうことをする人間とは違う」と素朴に思い、
明確に線を引いてきた人こそが、今回ザワついてるんじゃないの。
「世界を変えたい」という意味においては、オウムと似てるんだけど、
なんかしょうもないっつうか、薄いんだよね。
自分が弱い存在だなんて、特にサブカル周辺の人達には自覚があったし、
だからこそ、変に権威にすり寄って地位を得ることを嫌ってたわけだし。
それを、「全く、今まで見たことない、初耳です」ともし言われるのなら、
「それは運が悪かったですね」としか言いようがない。
これまでに、いくらでも考える材料はあったはず。
それでも、深く考えることもなく易きに流れてきたんでしょ。
思えば80年代後半は、そういう意味では本当に価値ある時代だったのかもね。
知的な人がけっこう普通に尊敬され、発言権もあったし、
「商業ベースには乗らない」みたいな硬派なミュージシャンも多かったし、
要するに、強者を持ち上げない雰囲気があったんだよね。
そのころに思春期だったから、そういうのは叩き込まれていて、
「強者になってもロクなことはないし、自分がそんなに偉いのか、
なんぼのもんじゃ」みたいな考えは常にあるから、
いまさらこんな記事を読んでも「何を当たり前のことを…」としか思えない。
難しく考えないで、弱さ受け入れられないのも人間、でいいじゃん。
そしてそういう人はみっともない姿晒すしかないじゃん。
そういうしょうもない人生を積み重ねてきた結果でしょ。
もともと私は石原さんが嫌いだし、差別発言もずーっとあったし、
いまさら何を言っても驚かないし、
みずからの衰えを受け入れられないと言われても「そうでしょうね」としか思わない。
というか、都知事なんていう地位にいながら、
そういう、弱者差別の考えしか持てていなくて、しかも支持されていたことに改めて驚くよ。
あの人に投票したの都民でしょ?
あんたらも同罪だよ、としか言いようがない。
あとね、どれだけ自分が「あいつ殺したい」とかの感情を持ったとしても、
それを実行に移すか否かというのは大きな違いだし、
やっぱ踏み越えちゃう人というのはある種の隔離も必要でしょ。
あまりにもそっち側を理解しようとするのも問題だよ。
オウムのときはみんなあっさり死刑とかで、深く考えもしなかったのに、
今回は元都知事までもが「犯人に共感を覚える」とか、
「この犯人みたいな人を隔離することもまた、犯人の思想に近づく」
みたいに言っちゃうようでは、ただの堂々巡りだよ。。
そうそう簡単に答えが出る問題ではないのだから、
知識人なんかがあんまり理屈こねくり回すのやめてもらいたいなあ。。。
この既視感は異常というかさ、
もっかい考えて、もっかいいろいろ論じないといけない時期にあるってことですかね。
オウムや酒鬼薔薇のときにさんざん考えて、それにみんな疲れ果てて、
「もうあの重さは思い出したくない」ってなって今のこの軽薄な時代があるんだよ。
でもなんか、本気出して考えないといけなかったり、
本音を言わないといけない時期なのかもしれない。
ネットの台頭で、「本音はなるべくぼやかす」「核心を突かない」
を心がけてきたけど(あんまり言うと炎上するから)、
もうちょっと本音寄りにならないといけないのかもしれない。
あんまりひどいというか、レベルが低すぎるよね。。。