diary

自分の考えをまとめ記録しているブログなので、批判ブコメの類はご遠慮ください。削除します。

あ。。

昨日、「100分de名著」で宮沢賢治やってて、

共感覚とか言ってて「え?」と思って、

クラムボンの人が朗読してたり、

ちょっと興味があって見てたんだけど、

けっこうヤバイ気がした。。

 

宮沢賢治は、「雨ニモ負ケズ」と「永訣の朝」のイメージだったけど、

銀河鉄道の夜とかヤバイ感じする。

ま、自分がそれほど社交とかしなくてよくなった、

定年後とかにのめり込んで読むのならいいかもしれない。

 

ただ、オリラジのあっちゃんが、

しくじり先生」でこれを取り上げてたらしいけど、

なんでなんだろう。。

動画見てみるかな。。

えーと。。

なんかねえ。

私自身地方出身だから、

いなかを小バカにして見下すなんてそんなつもりは一切ないわけで、

それでも「地方はつまらない」と言わざるを得ない状況があるわけであって。

 

「休みの日にクラシックとか聞きに行けて、

美術館や博物館もあって、十分文化的」とか言える人は、

ほんと幸せだと思うのよ。

で、そういう人が音楽スクールで言う決まり文句は、

「あくまで『趣味で』」という、

別にわざわざ言わなくてもいい一言を言いたがる。

要は、「プロになるなんて、そんなそんな、

地に足のつかない夢のようなこと、いい大人が言うわけないじゃないですか、

才能だってないし、そのくらいのわきまえありますよ」みたいなね。

私はそういう態度を軽蔑してるんだけどね。

 

例えば音楽をやることに、

はじめっからプロとアマなんてないわけ。

で、スポーツでも、英才教育こそ善、みたいになっている今の風潮では、

「プロになれないんであれば無駄」みたいに多分思われてるわけでしょ、

わざわざ「趣味で」って言いたがるということは。

 

けど、音楽をやることに、

そもそも趣味もプロもないわけ。

結局はおんなじことをやってる。

プロだから特別なことをやっているとかは、ぶっちゃけないよ。

機材が違うとかそのくらいのこと。

そこを、「そこらへんのどこの馬の骨かわからないやつが出した音なんか聴けるかよ」

という意識でいると、一生何もやることができないし、

卑屈に「趣味で」とか言うような人間になる。

私は、もうクッソ上手い先生達と一緒にやってるけど、

先生らがそんな差別意識持ってたら誰にも教えることなんかできない。

生徒なんて馬の骨だらけなんだから。

 

地方の人って、カルチャーを生業にするとか、

それで生きていけるという発想がどうしても持てないわけよ。

しょせん「休みの日に消費する観客」のスタンスしか取れないと思ってる。

東京だと掃いて捨てるほど業界人とかいるけど、

地方に住んでるとほとんどそういう人間を見ないから、

自分らは日々音楽とか聴いて生活してるくせに、その世界を特別視してて、

いざ仕事ってなると「食えるわけがない」と、

知りもしないくせに決めつけて、想像でものを言うだけ。

 

そういう特別感が地方なんじゃないの。

で、我々のユースカルチャーは、

休みの日に美術館行けるしクラシックも聴ける、みたいな、

そういう感じがいやだったからこそ地方が嫌いだったわけで、

特に何も発展しない保守的なカルチャーを忌み嫌ってたわけよ。

私は昔の巨匠とか好きだけど、かといって、

それだけを見てカルチャーだと言ってる感じはもうただの田舎オヤジだろ、

としか思えなかった。

今はそこまでは思わないけど、

そういった巨匠を介してどういう会話ができるか、

ということにかかってると思うんだよね。

美術館行くことで満足しているんだったらバカでもできますから。

 

そういう、カルチャーに緊張したり、

文化に「触れている」だけで「人と違う」みたいに思えるレベルが地方で、

仕事にすることに特別感を持たなくて済む場所が東京だから、

明らかに違う場所なのよ。

それがわからないんであれば別にいいし、わからないほうが幸福だよね。

 

まぁ今は、人付き合いもほとんどないし、

かといって孤立してるって程でもないし、

なんとか生きられないほどでもないって感じでどうにかこうにか存在しているだけこと。

なんかね、表現しづらいけど、

東京にいるとずーっと旅行者みたいな感覚で、

ワクワク感がなくならないんだよね。

どこの街に行ってもそこそこ活気があるし、

面白いものも見つけやすい。

だから、東京で一人暮らししているほうが、

なんだかんだテンションが高いまま暮らしていける感じはある。

ストレスで潰れそうなときもあるにはあるけど、

それは、地方で排除された絶望感よりはけっこうましだと思えるんだよね。

 

ま、今はけっこうニュートラルなんだけど、

衣食住が充実していれば都会なんて、

そういう勘違いはちょっとね。

私は本当に、子供のころから衣食住に困るような生活はしたことなかったけど、

(てかむしろ物や文化には恵まれてたほう)

それでも地方では絶望してましたからね。

妬まれていじめたりもされたし。

やっぱ先鋭的な場にいたい人にとっては退屈だよ。

全然違うもん。。

んー。。

私がああいった使い捨てカメラやトイカメラに否定的なのは、

以前にそういうものを使っていた層がやたらと排他的で、

「え?てか前から使ってるのこっちの世代ですけど?」

という腹立たしさがあるからってのもあるんだよね。

 

職場で毎日毎日ランチ時に、

「あー、もう25になった、(嫁に)行き遅れた」

とかくだらない話をしていたバカ女が、

チェキとかを喜んで使ってたわけ。

で、その職場は決まった席があるというよりは、

使うマシンの席に行って作業してたんだけど、

その日使う机の棚の上にチェキが置いてあったので、

「あー、なんかはやってるよね」と少し触ろうとしただけで、

その女「あっ。。。」って言って固まって引いてたの。

よっぽどこっちがガサツとでも言わんばかりでムカついた。

触られたくないならかばんとかロッカーに入れとけよ。

 

んで、絶対にそういう話に他人を入れようとせず、

常に同世代で固まってキャッキャしてたから、

V系バンドのチェキ会だとかなんとかもそうだけど、

なんとなくそういう自己中女を思い出すので苦々しい思いしかない。

 

もともとから若い女って苦手だけど、

今は割合過ごしやすい環境に身を置いてるので、

そこまでバカにされずに済んでて。

あの頃は悲惨だったね。

あと、最近の若い子が多少賢くなったようにも思うし。まぁわかんないけど。

 

チェキは買わないね。

ポラロイドは必要だよね。観光地とかで売りつける業者もあるし(汗)

それも変わってるのかな。

 

そういえばこの前行った美容室でも、

なんかそういうノリの美容師いて、

「だから美容室は嫌いなんだよ」と言いそうになった。

で、その美容師、

いかにも女子高生という感じの子とキャッキャ騒いでて、

カットもブローも終わっているのにだいぶ私は放置された。

美容室苦手だから一刻も早く帰りたいのに。

もう行きたくないな。。

へー。

使い捨てカメラねえ。

写ルンですは違ったっけか?)

 

私さ、デジカメや携帯が流行る少し前まで写真屋でバイトしてたから。

しかも、家族がずっと現役で使い捨てカメラ使ってたから。

いまさら感が半端ないというか。

若いやつに流行れば正義というのもさすがにこれは。。。と。

 

私自身、デジカメが優れているとも思わなかったし、

そもそも人と写真を撮る習慣がそんなにないので、

ろくにデジカメなんか買ってないんだよね。

高校くらいの時に安いカメラを買って以来、

まともにカメラを持ったことがない。スマホもあるし。

 

写真を添付できるブログができてからは、文章考えなくていい、

という手軽さから、携帯で撮って、

桜の画像とかをあげたりしてたけど。

桜の写真ももうみんな見飽きてると思うし、

撮ることすら面倒になってしまった。

あまりにも蔓延したせいで、

写真というものの価値が相対的に下がったんだと思う。

 

「めんどくさいからプリントしない」とかあったけど、

めんどくさいからやるんだろ、と思うよ。

どんなに携帯で撮った写真がたくさんあっても、

結局紙に残していなければ見返すことも少ない。

昔の携帯も全部持ってはいるけど、

電源入れて見返すとかないしな。。

 

そもそも、自撮りを自慢できるほど顔面に自信があれば、

ネットユーザーとかならないで読モにでもなるんじゃないの?

 

なんかそのすべてに飽きた。。

んー。

昨日、「怒り新党」の後番組を見てたら、

どうやら世間の若者はSNSから離れつつあるようで、よかったと思う次第ですが。。

 

押井守さんのインタビューがどっかに載ってたけど、

身体性のこととか、自分も結構人間についていろいろ考えているなーと。

前に東さんが、人間の脳は、一人一人独立しててどこともつながれず、

死ぬとどこにも記録もバックアップもされないで情報がなくなっていくのが、きわめて非効率、

みたいなこと言ってて、確かになーと思ったり。

 

なんか多分、地方での封建的な人間関係が苦手で、

そういうのに早くからあきらめてて、

自分の家族も口下手で話してもさほど面白くないし、

かといって自分もコミュ力あって声でかいみたいな人間とも馴染めないので、

早々にコミュニケーションには見切りつけちゃってるというか、

コミュニケーションで居場所を確保するみたいなものは、

もう関わる気もあんま起きないし興味がないんだよね。

結局、力のある人に取り入るみたいなことしかできないし。

地方に居ながら傷つかずになんとなく生きていくには、

とにかく「人と深く関わらない、下手に深い話をしない」ということ。

下手なこと言うと変人扱いだし、変な人と思われるといろいろ面倒だから。

とにかくやり過ごしの場ですよ。

というか、コミュニケーションで埋め尽くされた日常というのが、

単純に面白いと思えないというか、自分には合わないんだと思う。

もっとほかのことに没頭したり、他のことで評価される価値観も必要だと思うし。

だってこの前宮台さんも言ってたけど、

LINEのやり取りなんかも自動応答と大して変わらないのだから。

地方のコミュニケーションもさしたる違いはないよ。

 

で、最近はもう本当に、

「人間ってなんで生きてるんだろう」と考えることがほんと多い。

年齢的に、死をリアルに意識するから余計になんだけど、

そもそも、意味わかんない社会でのポジション取りに翻弄されて、

個人でいろいろと考えることはあっても、

偉人でもない限りそういう考えを記録されることもなく死んでいくわけで、

そういう生に何の意味があるんだろうと。

絶望してるというより素朴に疑問。

というか面白くないのかもね、日々が。。

スクールカーストだのママカーストだのと言われだしてからは余計に。

そういうのが一番くだらない。

SNSもそれを増長させるふうにしか機能してないし、

仲良くできないでただただ人と比較して上だ下だとマウンティングを繰り返すみたいな、

そういうことからできる限り距離を置きたい。

見た目を飾るだけのカルチャーとか。

もう少し面白いものの見方とか、面白い生き方って絶対あるはずなんだけど、

もう今の日本人は割と放棄しちゃっていて、

つまらない規律みたいなもので縛ろうとするばかり。

 

90年代に自分が好きだった音楽を聴いてて思ったのは、

あのころまでは人の生の本音とか感情みたいなものが、

カルチャーに乗っていたんだよね。

で、今みたいにつまらない雰囲気が蔓延しているのは、

ある意味、そういう大事なものを守るために、

「やり過ごし」の音楽でガードしているのかもしれないと思ったりする。

要は、公にあるものは、自動応答みたいにどうでもいいものであって、

本当に大事なものはあまり人目に触れさせないために取っておいてるみたいな。

そのくらい、人に言いたくないくらいすごいものが、以前は普通にあったし、

そういうのって、ただ技術的に上手いとかそういうもんじゃないんですよ。

80年代までは、メジャーなものがそういう役割を果たしてたんだけど、

90年代以降は、メジャーなものは少し質が変わってしまったというか。

 

私が羽生君のスケートについてさほど絶賛する気になれないのは、

もともとスケートを見るきっかけになった演技は、

大ちゃんが五輪で盛大に転倒したフリーの演技で、

決してノーミスで4回転で、というようなものじゃなかったから。

別にそんな完璧なものを見せなくても、

人の心を揺さぶる演技っていくらでもあるんだよ。

当時はものすごく気持ちが滅入っていて、でも、

大ちゃんの「楽しそうに演技する」感じに惹かれて。

今そういう人少ないよね。

そつなく演技するけど、エモーショナルな演技ってないというか。

言ってみれば、ノーミスこそが素晴らしい演技というなら、

毎回完璧に4回転を跳べるロボットでも見ている方がよっぽど感動できるってことになるけど、

そうではないから。

完璧とかレベルが高いということが必須と思われているけど、

人の心に訴えるものは実は違う。

大ちゃんは、「醜くてもいいから記憶に残りたい」と言っていて、

そういう価値観は今の選手にはおそらく皆無だよね。

皮肉なことに、そうなってからのほうがスケート人気は上がってる気がするけど。

 

まぁ、どうせ世間とは同じになれないのだから、

あんまり関わらないでいられればなーと。

話が合う人がいれば別ですけどね。。

あー。。

news.livedoor.com

なんかわかるわー。

まぁそういいつつ辞めないだろうし、

私は年齢的に恥ずかしくて口にも出せないけど。。

 

私の場合、短大の「就職ガイダンス」の時点ですでに無理で、

何か、かばんの置き方がどうとかで採否を分ける、

みたいなことを言われても、

普段ちゃんとしててもその日はてんぱってできない、

みたいな人はかわいそうじゃないの?と思うし。

かばんの置き方で一生が左右されるってのもほんとナンセンスというか、

人事とかそんな偉いの?神なの?って言いたくなる。

 

まぁ、人に使われるのはもともと苦手なので、

あきらめの気持ちが強いんだけどね。

なんか、サラリーマン経験はしたほうがいいみたいな人もいるけど、

何がセオリーかなんて、誰にもわからないから。

なんとかやっていけるなら何やったっていいと思うけどね。。

ふうう。。。

多分、友達承認してから数年たって初めて、

親戚の人に「これ本人?」と、FBアカウントについて聞かれたんだけど、

もう完全放置の上、

アカウント5個くらい持ってるんで、すぐにはわからなかった(汗)

つーかもう全削除しても何の支障もないわ。

その人と全然会ってないし、SNSでつながる気も全くないのに、いろいろチェックされたり、

詮索されるとかほんと気分悪い。

 

いやー、放置してほんとに正解だねー、SNSって。

ただ、「書いてることがイメージと違うから」とか言われ、

「あーやっぱり」と。

2個くらいしか投稿してないのにそれだよ。

本音を言えるのは、SNSが普及する前までの匿名のネットだけだね。

 

逆に言えば、「本音のほとんどが他人が引く」ってさ、

そういう人間がどれだけ生きづらいと思う?とそいつに聞いてみたいわ。

思ったことなんでもかんでも垂れ流せる人間が心底うらやましい。

さっきも、一応たまに見てるアカウントで、

知人がいいねしました、っていう投稿見てもさ、

もうさ、善人ヅラがあそこまで簡単にできるツールもないわとため息出そうになった。

やれ親孝行だ、景色の写真だ、ラテアートだ、自分の仕事の自慢だ、とか、

綺麗事のオンパレードはいろいろあるんだけど、

本当に力のある人ならそんなこといちいち公に言わなくていいと思うんだよ。

しかも見た方もリアクションに困るというね。

 

真に他人の気持ちを思うなら、極力何も書かない、

もしくは最低でも「笑える」か「役に立つ」ことを投稿してほしい。

んでね、誰も彼もに毎回、

「笑えるか、役立つことを言え」とか酷なことを言う気もさらさらないんで、

ああいうのは見ないのが一番いいんですよ。

 

安否確認や、つまらない投稿でも喜ぶのは、

自分の親くらいだということを肝に銘じてほしい。

しかも、こういうことを書くと極めて性格が悪いように思われるし、

いいことひとっつもない。

なんで、知人とつながってるからって、

知りもしない人間のきれいごと投稿を見せられなきゃならないのかわからない。

 

なんか、SNSに代わるオルタナティブなものが出てくればいいのにね。。。