小松政夫さんのインタビューを見てた。
彼は植木等さんの付き人というか弟子というか、そういったところからデビューした人。
多分、私の世代がギリギリじゃないのかな、
「みごろたべごろ笑いごろ」とかを覚えてて、
伊東四朗さんの全盛期(ピンでの)や由利徹さんの存在感を知っているのって。
それは、知っているほうが有利なのか、
もういっそ何もわからない方が有利なのかはわからない。
今の若い芸人と違って、当時の方たちは、
みな雰囲気が大人なんだよね。
おじさんが似合うというか、ナチュラルなおじさん。
内面的にも優しく、うまく言えないけど、
今の芸人とは違う。
自分がそういう人たちや、古いお笑いに惹かれるものがあって、
そういったことが少なからず下地となって、
若いときにカルチャーを享受していたのは、無意味ではないと思う。
ありていに言えば、品があるという感じなのかな。
由利徹みたいな人に「品がある」と言わなくてはならないというのは、
すごい時代だなとは思うんだけど。。。
要は「本当に芸を身につけている」芸人なのかもしれない。
いろいろとオールマイティーにできないといけないらしいので。
ああいうものが普通にあった時代の、時代の空気は好きで、
今と比べてふわんと暖かかったような。
別に今みたいに、女子はギャルみたいな、
見た目を整えることだけに必死みたいな感じじゃなくて、
もう少し、「若いということの価値」がそこまで意識されず、
若いだけで性の対象として高く見られる、
年取ると無価値になるみたいな、そういうのはなかったから、
若者は「若造」であり、未熟者としてさほど認められもしなかったから、
普通に大人なカルチャーとか中身のあるものが、
今よりは真っ当に評価されてたのかもしれない。
というか、当時ですら、
まだまだまともに認められないものがあるとは感じていたんだけど。
今からは、どうせ先端のものを追っていてもつまらないし、
そんなことをしても嘲笑されるだけの世代なので、
あのころの、「ふわんと暖かかった」時代にあった、
カルチャーとか人の雰囲気を思い出して、キープしていくことは、
案外バカにできない作業なのかもしれない。
今やろうとか作ろうとかしても、今の時代では無理なんですよ。
変に洗練させたり、変にテンションを上げたり、変に仲良い感じを演出したり、
変な作為がどうしても入ってしまう。
その変な作為を「小寒い」とどうしても思ってしまう自分には、
作為なしで「いい感じ」があった時代を思い出すよりほかにどうしようもない。
変な作為が入る理由は、多分「なんもないのになんか中身があるように見せなくてはいけない」
ということかなと。
今は本当にないよね、昔の古いギャグを思い出して笑うとか、
おっさんの感性を評価するとかそういうのが。
全てが全て、古いものはダサい、
古いことを振られても「それなんですか?知らない、わからない」
と言う方がスマートでかっこいいと思われてる。
若いやつに迎合し過ぎた結果なのかな。
まぁ、私はもともと感性が年寄り臭くて、
自分の祖母が作る料理にもさほど疑問を持っていなかったし、
思いのほか若いときから、老人に近い感性なのかもしれない。
だいたいさ、今の学校でもさ、
子供に教えていることはけっこう年寄り臭いでしょ。
ああいう学校教育もよくないんじゃないかなあ。
そんなこと何も知らなきゃ、
私は年寄り臭さを増幅させずに、年相応にいられたという気がするんだけど。。。
もともとの感性が年寄り臭いってことは、
歳をとればとるほど有利なのかもしれないけど、
あんまりうれしくもないなあ。。
そもそもから老人として生まれたら楽だったのになあ。。