この前テレビ放映で「君の名は。」やってたので見た。
前にWOWOWで見てたので2回目だったけど。
1回目に見たときは、正直よくわからなかった。
タイムリープする必然性ってどこ…?というのが引っかかって、
中身がないように思えたのと、
三葉の東京へのあこがれが痛々し過ぎて。
瀧が糸守をバカにしているのもなんか直視できなかった。
たとえば「バック・トゥ・ザ・フューチャー」なら、
ドクが作ったタイムマシンに乗らざるをえなかったマーティという設定がしっかりあるし、
アニメ版「時をかける少女」も、
タイムリープの理由は割と明白にあった。
単に運命で結ばれた二人が出会うため、三葉を助けるため、というとあまりにも安易すぎる。
しかも一度死んだものを、過去を変えて蘇らせるという暴挙であるし。。
そんなことが安易にまかり通ってしまったら何でもありになってしまう。
ただ今回、途中からだけどぼーっと見ていると、
よくよく考えれば、商業映画として恋愛の部分を強調したというか、
要は「運命の赤い糸でつながった二人」みたいな面を前面に出して、
ヒットを狙ったのかなあということと、
この映画における「時間の概念」はどうなっているんだろうということを考えてしまった。
この映画がこの時代にヒットしたことには何らかの意味やメッセージがあるのだろう、
と考えていくと、
近い将来タイムリープも可能ということの暗示なのかもしれない。
私は最近、もし10年時間を戻せたら、
絶対やり直したいことがいろいろあるのに、と痛烈に思ったりする。
もしそんな人間の思念だけでタイムリープが可能なら、
できないことはないのかもしれない。
だって三葉や瀧の入れ替わりやタイムリープが、
明確なツールも理由もないのに起きるというなら、
そう思う方が自然なのではないかと。
この前の「やりすぎコージー」の「都市伝説」では、
とうとう人間は肉体を捨てるという話になってた。
これに関しても私は、もうずっと若い時から、
肉体という制約がなかったらどんなにいいだろう、と夢想していた。
何故なら、当時は見た目の美しい人が今以上にもてはやされ、
その上、今のような画像や肉体の加工は許されなかった。
あくまでもともとの素材がいい人のみが選ばれた人として評価されていて、
生まれつきそうでない人には絶望しかなかった。
もし、年齢も、容姿も関係なく生きられるとしたら、
もっと自分の人生は違っていて、楽だっただろうと思うけど、
実際、SNS等が出てくる前のネット界はそういう理想郷に近かった。
何故なら、匿名でチャットや書き込みをしている世界は、
年齢も、性別も、見た目も人に晒さないで済むし、
自分の考え方、中身のみで人と関わるのが可能だったから。
今のように、リアルの世界がベースのSNSに席巻されたネット界は、
もうそうした「意識のみでつながれた世界」ではなくなり、
むしろ退化したと言っていい。
ただただがんじがらめに、24時間相互監視している世界。
もちろん、肉体を持った人間だから、
いつかは自分の生身を晒して関わらざるを得ないときが来るのだろうけど。
一時期のネット界は、
自分に付随したあらゆる情報をないことにして、
思いだけでつながれるという期待のようなものがあった気がする。
それほどまでに、リアルではその人に付随した情報が、
その人を縛り付けているともいえる。
もし、ネット以外では誰とも話さず、関わらず生きていたとしても、
時代が進んで肉体を捨て、意識のみで生きる世界になったとしたら、
今ネットのみで人とつながっている状態とさして変わらないのかもしれない。
「君の名は。」はアニメであるし、
あえて俗っぽく作られている部分が多いように思えるけど、
これを実写でやったらけっこう深いものになるかもしれない。
インターステラーみたいな。
ただそのためには、「何故、タイムリープが可能となったのか」
の理由は必要になると思う。
思念のみでそれができたとしたら、ちょっと荒唐無稽にしかならない気がするので。。