大抵なんでもそうなんだけど、
「世の中に広く知られるちょっと前が面白い」というのは同じっぽい。
最近はスケートも羽生君が全盛期だけど、
彼が活躍する前までのスケート界は「芸術」の香りがけっこう残っていた。
私は大ちゃんから入ってるんですけどね。。
まぁ、今の採点システムに問題があるんだろうけど、
以前のスケート界は、多種多様なキャラクターの選手がいて、
すんごい面白かった。
バンクーバー五輪では、あえて4回転を回避して、
全てクリーンな3回転ジャンプを跳んだライサチェクが金。
しかも黒鳥みたいなのがコンセプチュアルで面白かった。
あのころまでは、コンセプチュアルな選手でも、
町田君のようにわざとらしくないところがよかった(汗)
いわゆる、ジャッジにまだセンスがあったのかなあと思わざるを得ない。
今現在のスケートも好きだし、見るのは見るんだけど、
あの頃に動かされていた感情のようなものはほとんど起きないというか、
とにかくジャンプ、点数、加点がもらえる、ノーミスの演技、
みたいな言葉ばかりが飛び交っていて、
理屈抜きで引き込まれたあの頃の演技はほとんど見られない。
割とステップが重要視されていた感じなんだよね。
まぁ、スケートといえば元々は女子が注目されていて、
女子の方がもっと面白味に欠ける感じではあったのかもしれない。
伊藤みどりさんはジャンプの人だし。
最近だとリプニツカヤの演技がすごくエモーショナルでよかったんだけど、
調子がよくないのか、あんまり出てこない。
メドベデワはいい線行ってますが。
まあ今はロシアですよね、女子は。
当時大ちゃんの周りにいた振付師なんかが特殊だったのかもしれないけど、
プログラムを見ていると、
文化の厚みというか、脈々と受け継がれているカルチャーの流れをいやおうなく感じさせられる。
スケートは必ず音楽が切り離せないものとしてあるけど、
サントラがすごくよく使われていて、その映画一つとっても、
チョイスがもう、スタンダードとして定着してる古いものを平気で使ってくる。
サントラではなかったとしても、クラシックの名曲も多いし、
嫌でもその曲の物語や背景を考えざるを得ない。
そうなったとき、貧困な感性しかない人は、その世界を表現できない。
というか、20代前半とかで平気で引退とかする世界だけど、
そんな年齢では普通は表現できない世界なんだよね、
クラシックとか古い映画なんかは。
どれほど努力しても、感性だけはどうにもならないという気がする。
物事を感じる能力だから。
今の採点システムでは、いかにクリーンなジャンプをたくさん跳んで、
レベル4が取れるテクニックを披露して、
というところにしか行かないけど、
大ちゃん自身が、勝つためのプログラムはあまり気が進まない、
好きになれる音楽がいいし、プログラムとしていいものを作りたい、
と前に言ってたし、
そういうメンタリティは、今みたいな時代には受け入れられない。
スケートは元々競技であって、点数を競う以上、
芸術に傾き過ぎるのはよくないのかもしれないけど、
ただ、外側からその世界を見ていると、
今のようにジャンプ全盛時代になる前のスケート界が、
いかに芸術的な空気に満ちた特殊なものだったかを痛感してしまう。
どれだけすごいジャンプを跳んでも、
ノーミスの演技をしても、
「すごい」以外の感想がなかったりするけど、
久々に大ちゃんの演技を見ていたら、
いろいろな思いがぐわーっとこみあげてきて、
それって、フェリーニ映画のことやニーノ・ロータの音楽に関する記憶、
なんかいろんな感情が揺さぶられて惹き込まれてしまうし、
数分間のプログラムが、ものすごく濃密な、1本の映画を見たかのような感覚になってしまう。
そういう演技は、点数を稼ぐために作られたプログラムでは多分できないんだよね。。
自分は大ちゃんから入っているから特殊だし、
何に魅力を感じるかは人それぞれだけど、
(その前に荒川静香さんがいるんだけど)
あの時代に感じていたことはかけがえのないもので、
それはある一定の感性を持った人にしか作れない、
というのはなんとなくわかる。
もしかしたら、今の効率化、合理化の社会にはもっとも欠けているもので、
もっとも得難い空気感なのかもしれない。
私自身は良かったと思うけどね、そういうのを好きな人間で。
いろいろと生きづらいけど、感動の質が違うというか、
体験として豊かな気がするから。
なんか説明できないことなんですけどね。。
「かっこいいものを作ろう」とかいうのは、
頭で考えてできないことはないと思うんだけど、
そういう、浅いかっこよさとは違うものが、感動するものにはあって、
この前大瀧詠一の曲を聴いているときにも思ったことで。
あの「いいなぁ」の感じって説明できない。
いいなあとしか言えない。
なんなんだろう。。