もうさ、10年どころではなくずーっと思ってる感覚なんだけど、
ここしばらくのサブカルチャーって、
一言で終わるようなことや一瞬でわかるようなことを、
薄めて薄めて引き伸ばして作っているような、中身のなさがあるなあ。
某漫画が月1連載になったとか言ってるけど、
無駄に引き伸ばしても言いたいことは変わんないんだったら、
終わったほうがいいんじゃない?と思うことはあって。
あと、中身なんかないのに、ジャケットのデザインはそつがなかったり、
「見掛け倒し」で売ってるやつとか。
中身同じなのにパッケージ変えて出しなおしたりとか。
音楽なんて、もはや見た目で聴いてるとしか思えない。
本来、音に見た目もMVも関係ないですからね。音楽は耳で聴くもんだよ。
それだけで人に感銘を与えることは十分できるはず。ラジオとかさ。
ただ、クリエイターにとっては楽かもしれないね。
すでにわかりきってるようなことを薄めて引き伸ばして、
あれこれ枝葉をつけて、
さも斬新なことをしているように作っていれば紙面は埋まるのだから。
90年代って、「もうこれ以上の表現は出てこないだろう」
って思えるような、モンスターのような作品がボコボコあったのよ。
で、その感覚はやっぱり間違いじゃなくて、
あのころを越えることは到底できないでいる。
何を見ても既視感ばかりというのは、
真に新しいすごい表現や感じ方が出てきていないということ。
「どうせ元ネタはあれでしょ」みたいなものだったり、
恋愛の葛藤を描くにしても、学園内のほんとしょうもない恋のさや当てだったり。
最近じゃ、絵が可愛くても性表現を過激にすれば売れるみたいになってて、それも由々しきことに見える。
ブラックな本音とかさ、歪んだ自分とかさ、
人の心を打つのはそんなもんじゃないよ。
みんなそこのところがわかってない。
でね、90年代って、この上なく誠実な「真心」みたいなものが、
意外と普通にありふれてて、ヒットしたりしてたから、
ああいうものに感銘を受けた世代としては、
ブラックな本音なんてすごくチンケに思える。
だって人の本音がブラックだなんて当たり前だもん。
汚いとか不純とかそんなのこそ陳腐なんだよ。
それを表現されたところで自己満足にしか見えない。
「自分はこんなに本音がドロドロだよ、どうだ」って言われてる感じで。
「みんなそうですけど?」で終わりだよ。
そんなところに真の葛藤なんてあるはずない。
ただの本音なんだから。
弱い自分とか汚い自分はいるけれども、
それでもなんとか望みを見つけようとしたり、
それを抑えて理性的になろうとすることこそ尊いんじゃないの。
なんかさ、ブラックなもんを礼賛するようなカルチャーは私はあんまり評価しない。
「デスノート」とかは別よ。
人間の心の中の汚い感情みたいなもんを、かえって美化しているような、
そういう葛藤に酔ってるようなものはどうもね。
一見清楚で実はビッチの女の子がどれだけ本音が汚いかとかさ。
「それはそれで人間らしい」とか言い出したらきりがない。
ビッチなんて自分の意志や理性一つでどうとでもなるでしょ。
なんだかんだいって女の武器を利用しているタイプの女に共感しろと言われてもね。
私はベッキーの騒動のとき、
「まぁ、ただのいい子ちゃんを演じているのっぺらぼうよりは、
人間らしい面が出てよかったんじゃないの」とは思ったけど、
だからといってああいう本音が「かっこいい」とかは思わないから。
あれはやっぱり人に見せるべきではないんですよ。
ちょっと前に沢尻が出てたドラマでも、
なんか女の汚い本音がモノローグみたいになってたけど、
あんまり好きじゃない。
女の人がみんながみんなあんなだと思われちゃ困りますよ。
少なくとも自分の周りにはいないわ、あんな輩は。。