昨日の夜長々と見てしまったけど。。
斎藤環さんが、ひきこもり支援の一環で、
「むしろ病んでいるのは社会かもしれない。
その社会に適応している人間のほうが、過剰適応かもしれない。
ひきこもりの人が適応できないというのは、正常さの表れかもしれない」
みたいなこと言って、かえって当事者側に叩かれた、という話が、
「なるほどね」と。
人は結局、「人並み」に生きたいといつも願うものだし(親なんか特にそう)、
「適応できてないほうが本質的に正しいのかも」と言われたとしても、
あんまり慰めにはならないのかもね。
結局生活はそれで明るくならないというか。
彼らは人と同じことができないと、何が何でも悲しいんだよ。
そういった重いものを抱えている人は、
親切心で言ったことでもけっこう反発したり、
「甘いことを言うな!」とか怒ってきたりするから、対処はむずいですよ。
で、結局関わらないほうが無難、みたいになってしまう。
私自身、今の社会に適応している人間のほうが立派で正常、
とか全然思わないんだけど、
そうかといって、宮台さんの話には、常に一抹の違和感はつきまとう。
これは理由がよくわかんないんだよね。
他人の顔色とか空気とか伺う必要は一切ない、
「立派な行い」をする人間になれみたいなことを言われるんだけど、
なんていうか、もう少し取り入れやすい考えはないものかといつも思う。
けっこう極端というか、孤高の人みたいな感じなんだよね。。
ただ、95年以降くらいから、社会のモードが変化していない、
ゆえに85年くらい以降に生まれた子達はだいたいみんな聞きわけが良くて暗い、
みたいなのは、まあそうかなという気もする。
確かに、ゼロ年代以降、
ネットの普及とか以外にはめぼしいものが出てきていないんだよね。
まぁ個人的にはそれなりに楽しいこともあったけどね。。
お笑いブームの定着とかはけっこうはっきりしている気がするけどね。